昭和52年04月03日 朝の御理解
御理解 第2節
「先の世までも持っていかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。」
信心すれば誰でも御神徳が頂かれる。しかも子孫にも残すことが出来る。あの世いわゆる先の世までも持って行かれる。それが神徳。信心をすれば誰でもと言われるけれども、ほんなら御道の信心者が、金光教始まって言うなら、まぁ例えば百年なら百年、どのくらいの信者が出来たか分かりません。けれどもあの世までも、おかげを持って行っておられるであろう、また子孫にも残しておられると言う様な信者は、もうごくごく少ない。してみるとこれは教祖様は、嘘を仰っておられる様にある。
けれども結局お徳の受けられるような信心ということなんです。おかげの受けられるような信心から、お徳の受けられるような信心になったら、誰でも受けられる。お徳の受けられる信心という信心を、皆が目指さないけん。又はその手立てが分からないでおる。そういう意味で合楽理念は見やすう、御神徳の頂けれる手掛かり、又は道をはっきり。もう、絶対の道として示しておるのです。
だから言うなら合楽理念をマスターし、合楽理念を行じていく限りにおいては、それは誰でもあの世までも持っていかれ、子孫までも残るという神徳が受けられると言う事になる。言うなら金光教始まって初めてここにです。教祖の神様のこのお言葉の中に、信心すれば誰でもと言われる、その誰でもと言うのがね。合楽で言われる合楽理念を体得して、この信心に取り組ませて頂いたら、それは誰でもと言う事が言えれる訳ですから、その誰でも受けられるそういう信心を一つ、お互い目指さなければならないと言う事です。
昨日は福岡の高橋さんの所の、恒例の謝恩祭がございました。もう全店を挙げてもう店をお休みにしてからの、昨日はお祭りでまぁ盛大におかげを頂きました。私はあのお祭りを、段々奉仕させて頂いて改式してございますから、霊神様へもご挨拶をさせて頂いておりましたら、その仏壇に座った途端にお社がね下から、こう地震でもあっとる様に、あの動じられる御神願を頂きました。と言う事はどう言う事だろうかと思う。
言うなら御霊様がもう根からこう、感動というでしょうか言うならば、合楽理念に基づいて、御霊ながらの修行があっておって、根本からの助かりがあっておるという様に感じました。ですからこのお徳を受けるという事は、先ず根からおかげを受けなきゃ駄目なんです。まず自分の心が助からなければならない。言うなら先祖の御霊が助からなければならない。そういう働きがあっておるなぁと。
昨日は御理解の中にも申しました様に、おかげを受けてそれを神心となりて人に伝えていくと言う事が、本当に合楽にお参りさせて頂いたら、医者が不治、もう治らないと言われておった病気が、おかげで助かった。開けんと思うておった道が開けた、と言うおかげを受けて、あぁあなたも困った事があるなら、一つお参りして見なさいと言うて、まぁ人に伝える。その人もまた助かっている。
けれどもそういうおかげを受けて、人に伝えていくということと。あの日吉ツル先生の例を取ってお話しましたように。おかげは形に現れなかったけれども、ツル先生自身の心の中に助かりが見え始めた。信心の有難さが分かってきた。そのためには十日に一遍ずつ、芦屋から小倉へお参りになる。自分の身を削るようにして、一合ずつの米を貯めて一升の米になった時にお参りをされる。
もう一日がかりでその当時に、乗り物はないですから、歩いて芦屋から小倉まで、一日がかりのお参りが、もう楽しゅうして楽しゅうして、有難うして有難うしてと言う心が開けてこられた。ある時に、その一升のお米をお供えして、お取次ぎを願われると、桂先生が、御神前に立たれて御祈念をなさった。その時のご栽伝に日吉ツル、真の信心になったというご裁伝であった。だから真の信心とは、自分の心の中に助かりが生まれてくる。自分の心のなかに、信心の喜びが出来てくる。
その信心の喜びが、どうかせずにおられんというのが、十日に一遍のお参りであり、日に、一合ずつ、自分の食べ量から。自分の身を削るようにして、一合ずつ貯めていかれた。それが一升になった。一升になった時が、ちょうど十日目、それを楽しみにお参りをされるようになった。そういう信心が続けられておる。そういう時に神様から日吉ツル、真の信心になったという。真の信心を頂いて、そして真の信心を人に伝えて行かれるようになった。いわゆる、神心となりて伝えておる。
神様から人を助けてわれ助かれと。自分自身はほんなら、肉体の上には助かってないけれども。心が助かっていた。そこで助かった心で人にそれを伝えていく。人が助かる。その人が助かる喜びで、お前の病気やら難儀は助かっていけよというお知らせであった。そしてあの芦屋の地区に、構社が出来そして、教会という様な広大なおかげを受けて、お徳を受けられた。それこそあの世にも持っていかれ、この世にも残しておけるという御神徳を残しておられるのが、今の芦屋教会のゴヒレイなんです。
そういう例えば、あの純粋な信心から、入っていくという事と、なら奇跡的なおかげから入っていくという二つの事を、昨日聞いて貰いましたよね。高橋さん達の場合なんかは、それこそ枯れ木に花が咲くような、奇跡的なおかげを受けられて、そしておかげを受けたら。一年間日参をされた。そして一ヶ月間御礼を、それこそ誰が聞いても、誰に言わせても、そういう事であんた、おかげになるはずは無いじゃんねと言われたのが。それでも、やむにやまれず一番初めに、当時の椛目にお参りした時に。
一心におすがりすりゃおかげになると言われた。ただ親先生のその一言を頼って、もう一月間それこそもう降ろうが、照ろうが参ってきた。所がその枯れ木に芽がで出してから、枝が出だした花が咲き出した。そして実が実ったんです。だからその御礼の為にもう一月間、お参りをさせて頂く。もう一年間はただその事のおかげを頂く、枯れ木に花が咲く様なおかげを頂きたいばっかりの信心から、お礼参りの一月間が続いた。
そして今度はもう本当に有難い、勿体ないのお礼参りの信心が一月間続いたら、もうそれから止められなくなって、今日まで十何年間日参が、福岡から続いておるわけです。だからね自分の苦しい事で一杯の時には、なかなか本当の信心は入ってこない。高橋さんとしてはおかげを頂いた、その御礼の為に一月間、お礼参りをするだった。それがほんなら、一月間のお礼参りをするうちに、信心というものは、そんなものじゃないという事が、今度は、改めて分かってきた。
そして今日までの信心が、福岡からね大変な事なんですよやはり。その当時は単車で参って来よりなさいました。段々おかげを頂いて、まぁ自動車でお参りが出来られるようになって、今日お店もそれこそ従業員が百人から。十軒からの支店がある。それでまぁ今の不況にあおりを食ってまぁいろいろ、人間関係とか経済の面にも。金を出しておった人がもう金を出さんち言うて、別れてしまうと言った様な事やらもあって、もうそれこそ四苦八苦の中をようやく、今また切り抜けれそうな道が、段々開けて来よる。
まぁ言うならば大変な、難儀なところを通らせて頂いておる。だから信心すりゃ良かこつばっかりと言うこっじゃ決してない訳ね。昨日私は御神前に出らせて頂いて、始めに頂いたのはね。あの絵やら置物によくありますね。牛に子供が乗って笛を吹いておる。あれは、牧童か何かですね。ぼくと言うのはあのこう牧という字ですかね。どうは童という字。あん牛の背中にね、可愛らしい子供が乗って、横笛をこう吹いておる図とか。その作ったものがありますね。床置きなんかに、ありましょうが。
あれを頂くんです。そしてその馬からね、その牛に乗り換えておるところを頂くんです。だから馬と言うのはここでお知らせ頂くと、うまうま卑しい心と。人間が誰しも持っておる言うならば、心と言うても良いけれども。信心させて頂いておるとその卑しい心、汚い心が段々取れてくる。取れてくるに従って分かってくるのが、巡りの自覚であったりまたわれ屑の子の自覚であります。自分がいよいよ分かってくる。
もうようこう、いう自分のような者を、神様がかばいにかばって、今日までおかげを下さったもんだと、自分が分かってくる。けれども高橋の家に、本当にさまざまなめぐりがある。そのめぐりが取れなければ。子供にも孫にもほんなら、残しておけるという事にならない。そのめぐりの自覚が出来てきた。言うならば牛のお知らせは、家のめぐりとここでは頂きます。その家のめぐりの自覚に立って、その牧童がいうなら、高橋さんじゃないでしょうか。
なるほどめぐりのための、この難儀ではあるけれども、その難儀が例えば、自分の吹き鳴らすその横笛の音色に、それこそ聞き取れておるようにしておる図が、あの牧童の図なんです。自分の吹き鳴らす言うなら、どういう事かというと段々二十年間信心を続けさせて頂いて、本当に枯れ木に花の咲くようなおかげを頂いて、今日の三福がありそして一時は、大繁盛と思えるほどしに発展した。ところがあの色々手違いやら色々な何で、資金難で、大変難儀をするという様な事があった。
それこそ見捨てる神があれば、助ける神があるでそういう中にあっても、やっぱ何とはなしにお繰り合わせいただいて、今日頂いておる。その言うならばお礼参りの一月間が、もう今日までほんなら、十何年間続いた訳。そのうちにです。めぐりの自覚にも立たせて貰えれば、自分自身の正体というものも分かってきて、時々は吾とわが心が拝めれるような、有難いものすらも頂けてくるようになって来た。
自分の吹き鳴らす笛の音色に聞き取れ聞きとれ、いうならば、家のめぐりのお取り祓いの為に、只今修行があっておるという事ではないでしょうかね。次には大黒様がこんな厚い座布団に、どっかと座っておられるように、あの霊社と神様の間に、こうお祭りしてございます。あちらのは確か四国でじゃなくて、あの出雲に行った時に買ってきたものですよね。ですから打ち出の小槌をこう持っておられて、足がその着ておられる衣というでしょうか、着物からこうはみ出しておるところです足がね。
そこんところを頂くんですよ。そして打ち出の小槌を低く持っておられるものだから、足がこうやって出とるところを頂く。商売人が足が出たという時には、損をしたという時でしょうが。大黒様が損してござる。足出してござるという事です。現在はそうなんだ。だから、問題は、ほんなら、この大黒様が、ちょっと上に、これを上げなさると同時に、それこそ無限のおかげの頂けれる前提にあるんだと。
今めぐりのお取り祓いの最中にあるのだ。そのめぐりのお取り祓いも、例えばそれはまぁ本当に、もう話を聞くならあの芝居場です。あそこの家庭の事は。もう本当にこりゃほんなこて、そげなこつば言うのち言う、親が言うのという様な事です。もうそれは本当にまぁ結局、お父さんが本当に三福の大発展の為に、悪役に回っておられるという感じですよ。それこそ本当に人にどん話されるこっじゃない、親子の事ですから。それこそ血の涙が出るような中を、もうそれこそ有り難涙で受けてきたと言う事なんです。
これがめぐりの言うなら、牛にまたがってそして、笛を吹いておるその姿じゃなかろうかと思う。おかげを頂いた。そして次には心が助かってくるための、言うならば合楽理念から申しますならばです。どういうそれが親がですこれが、例えば親の言葉だろうか、親の仕打ちだろうかと言う仕打ちを例えば受けてもです。自分をいよいよ心を大きくする、丸くする事のための修行として、受けてきておるわけです。
そらもうやっとかっとの時もありますけれども、これは親先生が親教会との色んな関係の時、もう親からの時には、もう何時もそれを自分で思うておる。だから親先生はこう言う時には、あぁいう風にして、通り抜かれたんだからという頂き方が、いよいよ心をより大きくしより丸くしていく働き。言うならば自然界には。一切を丸うせずにはおかんという働きしかないという事が例えてきた。そして血の涙の出る様な事を、ありがた涙に変えていくような修行を、段々させて頂いた。まぁ頂いておるわけです。
次にはもう大きな大きな大祭の時にお供えするような鰤をね、このくらいばっかりの小さい、三宝ですそれをこう絞ったとを結びよるけれどもね、三宝がこまいものじゃけんで、どげな風にしたなら、動かんじゃろうか。もうその据えるとに、据えかねておるところを頂くんです。神様は鰤といやそれこそ、鰤振りとしたおかげと言うことでしょう。そういうおかげも、神様は用意してござるから、さぁ太れさぁ大きゅうなれと言うのが、この三宝が、大きゅうならなんとこじゃないでしょうかね。
だから言うなら、おかげの前提にある、実に尊い信心修行を、今しておられるということ。しかもそれがです合楽理念を基にしてのことであるから、血の涙がありがた涙に変わってくる。これが親の仕打ちであろうかというような仕打ちを受けながらもです。やはり、親のことを祈り続け、もうあんたには本当の安心、本当の喜びをしてもらいたいばっかりの、今の修行だよという様な気持ちなんです、親に対する。もうそげなこつば言うごたるなら、もう構いはせんと言ったよ様なものじゃない訳なんです。
もうそれこそもう下手に下手に出て、まぁ両親に仕えておられます。そういう私は生き方がです。いよいよ身に付くという事がね。合楽理念を基にしての生き方。血の涙の時には、悲しいことですけれども、それがありがた涙に変わっていくという事は、有難いことであり楽しいことであり、場合にはそれこそ。まぁとてもあげなこつば、言うたりしたりしよるがと思う時、心の中に神様は次には、どげなおかげを下さろうと思うてござるじゃろうかと思うて、愉快になってくる。可笑しゅうなってくる。
皆さんとにかく見ること、見ること自分を見ること。自分をいよいよ見出したらね。本当に自分のようなくずの子の自覚。言うならばめぐりの自覚が出来てくる。その巡りに乗って自分の心の中から、発するところの信心の喜び。自分の心が拝みたいような心。自分の吹き鳴らす笛に聞き取れるような心。そういうところへ信心というものが進んでくる。そういう信心を、あの世にも持って行かれれば、この世にも残しておけるという信心とは、そういう信心だと。大きな問題が起きてくるとよろよろする。
そら大きな問題というものは、大きなおかげの塊のようなもんだ。だからその大きな問題がどっこいと、大きな三宝で受け止められる時に、いわゆる次の鰤振りという様なおかげになってくる。いかにも今は商売のように足が出ておるようにあるけれども。足の出るような、いうならば商売の状態の時に、さぁ今こそ大きくなれよと、今こそ限りなく和らぎ喜ぶ心を頂けよ。
いよいよ心を丸うしていけよ、大きゅうして行けよと言う働きのあっておる時であるから、それがそれと悟らせてもらえる時に、その修行がまた有難い、楽しいものになってくる。私はそういう信心がです。例えば誰しも説かれるように説いてあるのが、合楽理念なんです。だから合楽理念を基にする生き方、そういう信心こそがです。そういう信心をすれば、誰でもお徳が受けられる。先の世までも持って行かれ、子孫にも残るほどしのおかげと言うのは、そういう信心から、生まれてくる。
しかも絶対だと、合楽理念は説いておる訳ですね。だから起きてくるその問題、成り行きそのものを、いよいよ合掌して受ける。さぁ言葉でだけは、それだけだけれどもそれこそ血の涙の出るような思いがする時があるけれども、よくよく御神意を分かり、ご深慮を悟らせていただくと。その血の涙の出るような事柄が、実はありがた涙に変わるほどしの素晴らしい神様のお心が分からせて頂いて、いわゆる天地日月の心にならせて頂くこと、いよいよ、肝要である事が分らせて貰い。
このようにして天地日月の心というものは、頂けれるんだ備わってくるんだという事が分かってくる。そういう働きになって来る時に、自分の心言うなら根が助かるだけではなくて、家の根が助かって行きよる。もう御霊様が根本的から、こうやってそのお社が動くような感じ。もう根から助かって行きござる働きを、私は昨日感じました。もう芯から助かるという事は、根から助かることです。先祖が助からなければ出来ません。先ずはあなたの心が助からにゃいけん。
ほんなら心が助かるという事はです。ならどういう場合であっても、問題であっても神様は、より豊かな心により円満な心になれよという働き以外にはないのだと、悟られた時に、合楽理念が分かった時だという風にも言えます。本当に合楽理念が、御道の信奉者全体の上に徹底して行って。本当に合楽理念を基にしての信心生活が出来れるようになった時に初めて、金光教の信心する、誰しもが受けられると仰る。信心すれば誰もが頂けるというおかげ。
いわゆるあの世にも持っていけ、この世にも残しておけるという、御神徳の頂けれる世界が開けてくる。ですから先ずは合楽にご縁を頂いておる皆さんが、そういうおかげの実証者として、おかげを受けられそれが。合楽示現活動に参画させて頂いて、それが示現の働きというところまでもなり、言うならば光輪の世界が光の輪が、広がりに広がっていくおかげを頂かなければいけません。あの世この世を通しての助かり。それには今日私が、皆さんに聞いて頂いた様な、信心によっての事。
しかもその信心と言う事は、自分から求めてする修行ではなくて、起きて来るその問題そのものを、合楽理念の言うならば、心でそれを受け止めていくという稽古。難しい事の様である信心のない時には、大変のようであるけれども、信心が段々分かりだして、いうなら自分の卑しい心から馬の背中から、牛の背中に乗り変える頃には、本当に勿体ないという心が強うなってくる。吾ながら自分の心が拝みたい様な心の世界が開けて来る。そういう信心から、いわば御神徳が受けられると言う事を、今日は聞いて頂きました。
どうぞ。